先天性鬱病患者

「先天性鬱病患者」の私の日記


私の父にまつわる話。


「…の親父ってどんな人なん?」
ある時、そう聞かれて少し考え込んだ。


「ひとことでいうと、金持ちになれない人…かな」


断じて悪口や陰口ではない。他ならぬ父自身が言っていたことである。



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高校を卒業して大学に進学し実家を離れることになったことを報告したとき、普段は滅多に話をすることのない父が神妙な面持ちでひとこと、


「お前は大学に行って将来何になるんだ」


と尋ねた。


それ自体は世間一般でよくある、子どもを持つ親の典型的な質問であった。そしてその質問に対して私は世間一般の子どもと同じようにしばし頭を悩ませ、そして世間一般の子どもがそうであってほしいのだが、とりあえず適当に答えることにした。


「さしあたって日々の暮らしに困らず、ご飯が食べられるような人間になりたいね。高望みをするなら、一年に一回くらいはちょっとぜいたくをして、外食ができるぐらいの収入が欲しい。」


私の返答に対して父は黙り込んだ。
私の家庭は決して貧乏ではなく、両親ともに大学を卒業して安定した職に就き、どちらかといえば比較的裕福であった。しかし、私はどうやらそのような一般的な家庭に育った大多数の子どもたちとは少々異なり、おそろしく即物的で現実的な子どもに育ったのだということを後になって知った。
当時の私は、この返答が一般的な家庭の親をがっかりさせるかもしれないということに薄々勘づいてはいたものの、実の親にウソをついたところでどうせバレるものなので、正直に答えることにした。ややあって、父が口を開いた。


「金持ちになりたいとは思わんのか!」


私は父を怒らせてしまったのかと思って内心ヒヤヒヤしたが、正直に


「ウン、別に…」


と答えた。当時の私は、「お金よりも大切なことがある!」というロマンチックな考え方をけっこう本気で信じていたのであった。
ところがどっこい、じっさい、お金はあったほうがいいに決まっているのだ。「お金よりも大切なことがある!」などと言えるのは、ある程度のお金を持っているという前提があってこそ言えるセリフであって、ほんとうにお金に困っている人はそんなこと口が裂けても言えやしないのだということを、残念ながら当時の私は知らなかったのだった。
というか、それ以前に私は、自分が努力の嫌いな怠惰な人間だとよくわかっていたので、金持ちになることなどほとんど諦めていたのだ。


「…そうか、安心した」


意外な一言にキョトンとする私を無視して父は続けた。


「オヤジ(父は私の前では、自分のことをこう呼んだ)は、一つお前に謝らないといけないことがある。お前はオヤジの子どもに生まれてしまったから、絶対に金持ちにはなれない。だから、金持ちになりたい、というのがお前の夢なら、残念だが、その夢は諦めてくれ。でも、それはお前のせいじゃなくてオヤジのせいなんだ。すまんなあ。…だから、お前が別に金持ちにならなくていい、と言ってくれてほんとうによかった。」


どうやら父は泣いているようであった。私はポカーンとしつつも、気づけば一緒にぐしゅぐしゅになって泣いていた。後にも先にも、将来について父と話したのは、あれきりである。


父は正直な人間であった。
正直、というと聞こえは良いが、正直が人間の美徳になるのは、時と場合に応じてウソをついたりごまかしたりできる裁量や器用さがあってこそのことなのだ。
(しかし世の格言にはことごとく補足説明が足りない。鵜呑みにするとエラい目に遭う。)
ともかく、父の正直さはそんな美しいものではなかった。もはや「愚直」と呼んで差し支えないレベルであった。正直者も度を越せば愚か者になるのだろうか。それでいて父は鈍臭く、不器用で、頑固で、地味で、野暮だった。まるでこの世の中を生きていく上で不利と思われる要素をこれでもかと詰め込んだような人間、それが私の父だった。
そして、そんな父の子である私もまた愚直で、鈍臭く、不器用で、頑固で、地味で、野暮な人間であった。これでは人のことなど言えまい。
かくして私は、自分が決して金持ちにはなれないのだということを、18歳にして知ることになった。


正直なところ、その事実は私にとってはかなり残酷なものであった。それというのも、お金というものは世の中でけっこう重要なものであり、ないよりはあったほうがいいものだと私は信じていたからである。


やがて月日が流れ、私は23歳になった。私は相変わらず愚直で、鈍臭く、不器用で、頑固で、地味で、野暮な人間のままである。

ただひとつ当時と違うのは、父がいない、ということだ。


今になってふとおもうのだが、自分の子どもが金持ちになるかならないかなど、実は親にとっては些細なことなのではないだろうか。しかし父は不器用だったから、そんな些細なことにも本気で悩み、そして涙した。
父が常日頃から言っていたことだが、親は子どもが幸せでいてくれればそれでいいのだと、そういうことなのではないだろうか。そして、それは実は世の中ではかなり大事なことで、そのことを教えてくれたという点で私は父に感謝するべきではないだろうか。少なくとも私はこれまでの人生で、自分が不幸だと思ったことはない。どうやらそれが、類い稀に幸福なことであったらしいのだということは、後になって知った。


愚直で、鈍臭く、不器用で、頑固で、地味で、野暮でも、父は親としての使命を全うしたのだった。それでいてさらに、子どもを大学まで行かせて無事に卒業させた。並大抵のことではない。我が父ながら、大したもんだとおもう。


「こんなオヤジですまんかったなぁ」


父は最期まで泣きながら私に謝っていた。父はほんとうに不器用な人だったから、それが自分の子どもに対する最低の遺言であったことに気付かなかったのだ。
馬鹿な私はただただ一緒になってぐしゅぐしゅ泣きながら


「こんな息子でごめん」


と謝るしかなかった。
つくづく似た者同士である。


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「金持ちになれない人って…自分の親やろ。もっとマシな言い方はできひんの」


私は困ってしまった。ほかに父を説明するのに相応しい言葉が見つからなかったからだ。
しばらくしてから、ふとひらめいて答えた。


ロマンチスト…かな


「あぁ、それならカッコええやん!」
「そうそう、カッコええやろ」


そういうわけで、今の私は当時よりも「お金よりも大切なことがある!」という考え方をちょっぴり本気で信じている。


私の父にまつわる、ちょっとした自慢話。

故郷


 この街には雪が降るのだ。
 
 駅前の広場に出て、降りしきる雪の中で耳が痛いほどの沈黙に包まれたとき、「あぁ、わたしは帰ってきたんだ」ということを、身体が痺れるような感覚とともに実感した。
 
 大学進学に伴い初めて地元を出て関西のとある都市に住み始めたとき、雪の降らない冬にひどく困惑したことを思い出した。
 故郷の雪はちっとも美しくなかった。大粒で重い不細工なぼたん雪。周りの水分を詰め込めるだけ詰め込もうとしてぶくぶく太った強欲な雪。踏むたびにべちゃべちゃと不快な音を立てる雪。それが私にとっての雪であり、故郷の思い出であった。
 だから私は雪が降らない光景に戸惑った。雪が降らないということよりも、私の中で雪というものが故郷と密接に結びついていたこと、そして思い出を感じさせるものだったことに気づいて当惑したのだった。


 母が駅前まで車で迎えに来てくれた。後部座席に揺られて実家までの道すがら車窓を眺めると、さびれた商店街が見えた。なんでもない地方都市のシャッター街。その中に遠い昔、友人と一緒にアイスクリームを食べたお店を見つけて、その景色が急に愛おしく思えて涙が溢れてきた。